siro  鏡山城跡(かがみやまじょう)、比高100m
場所広島県東広島市西条町御薗宇
訪問日2007年6月27日(水)
備考大内氏、安芸、備後の拠点
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鏡山公園入口。
バックは鏡山。
最近、少しでも元就に関係ある城跡には、
この手の案内板が設置されている。
その横にある案内板。
登山中、東出丸。

この後、「竪堀」の案内板があるが、
藪で確認出来ない。
堀切。(案内板有り)
堀切の中から尾根側を向く。
5郭(下のダバ)。
2郭のすぐ東下ですが、
急峻な崖下(13m)となっています。
井戸跡があります。
その中を覗く。
4郭(大手門跡)。
この下に南郭群が存在します。
とりあえず下りてみる。
南郭群に下りる途中、
3郭(馬のダバ)下の石垣。
そのすぐ先左手遥か下方に、
横に細長い郭と、左端にはその郭に向かって
竪堀が伸びています。
そのすぐ先右手に畝状竪堀。
写真では分かり難いが、4本の竪堀が確認出来る。
振り返って小郭。
2つ前の写真の郭の西側辺りに位置します。
その南下に小郭。
そのすぐ先右手に南郭群最大の郭でしょうか。
上記郭南に土塁跡。
そこからすぐ車道に出ます。
左の階段から下りて来ました。
この周辺は牧場になっており、平地です。
大手門跡まで戻り、3郭(馬のダバ)へ。
その入口にある門跡。
3郭(馬のダバ)。帯郭の形をしています。
2郭のすぐ南下ですが、
やはり急峻な崖下(13m)となっています。
2郭(中のダバ)。
軽く3段になっています。
南(左)側には土塁があります。
井戸跡が2つあります。
ここの井戸跡は2基とも窪みしか残っていません。
2郭から北郭群目指して下ります。
途中、直進と右下とに分岐していて、
奥の方には井戸跡が見えます。
とりあえず直進。
そのすぐ先、右に竪堀が下っています。
1郭(御殿場)西下の石垣。
がんばれば、この岩を伝って御殿場に登れます。

ここから1郭2郭(山頂部分)をトラバースする様に
南側に山道があったのですが、
多分、3郭(馬のダバ)に続いているのでは...
振り返ると北端が岩になっている小丘陵。
多分見張り台だったのでは?...
その先の小丘陵との間に堀切。
更に西へ行くと、また堀切。
その先に小郭。
やはり北端に岩が...
見張り台?...

ここから引き返し、先ほどの分岐を下りてみる。
北郭群と書いてあるが、
ただの北郭群最大の郭でしょう。
上記東に竪堀跡が上から下へ。見下ろす。

この先(東)にも郭がある様ですが、
藪なのでパス。
先ほどの郭のすぐ北下にある郭。
そのすぐ下に小丘陵。

ここから2郭(中のダバ)まで引き返す。
1郭(御殿場)。
東の高所とそれを取り巻くL字型の低所の
2段になっています。
建物跡があり、御殿があった様です。
御殿場西の岩場から西側方面。
奥は鉾取山山系でしょう。
右端の方に見えるのが、
曽場ヶ城山(曽場ヶ城跡、一ツ城跡)で、
正面奥の方が槌山城跡でしょう。
同じく南側方面。
左の方の山を越えると小早川領で、
松尾城跡等があります。
鏡山城全景。(北側より)
(まとめ・総評)
大内氏が安芸、備後の拠点として築城。
毛利氏がまだ尼子側に就いていた際、尼子経久によって攻められる。
元就は、病弱の毛利当主幸松丸(元就長兄亡興元の子、9歳)を後見し、参戦。
兄倉田備中守、弟倉田日向守が堅固に守っていて容易に落ちなかったが、
元就の謀計で日向守を謀反させ、落城。これが因で、付近の大内方国人は揺れ動く。
尼子経久によって、元就の功は認められたが、結局日向守は斬首された。
この年、幸松丸は病死(鏡山攻城参戦が因とも...)し、元就が家督を継ぐ。

国道2号線(西条バイパス)から降りて、広大方面を目指して南下。
広大手前で鏡山公園(案内表示有り)があり、その駐車場に車を置き、登る。

山頂まで寄り道無しなら15分くらいのものですが、今回のコースでよく見て回って1時間ちょっとです。
南郭群は麓近くにあり、大手道の防備の為のものでしょう。
北郭群は、比較的緩斜面の北側の防備と、搦め手道の監視の役目だったのではないでしょうか。

今回は2回目の登城ですが、前回(2006.4.6)の右も左も分からない時と違い、資料に頼らず多くを探訪出来て、
新鮮な部分も多々あり楽しめました。

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 参考資料:H・L・C「広島近郊の山城と史跡」