siro  有福城跡(ありふくじょう)、比高135m
場所広島県府中市上下町有福
訪問日2007年10月28日(日)
備考頼朝の側近、小早川家の祖、土肥実平の備後の本拠
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上下歴史文化資料館。
近世の事ばかりで、中世以前の歴史、
城跡等の情報は殆ど無い。

とりあえず、パンフレットで有福城の位置を確認。
有福城麓の案内板。
案内板から直進し、建物の間から入山、
もしくは建物の左を廻って入山する。

すぐ道は右(南側)へ曲がるが直進の藪道へ入る。
更にすぐ右(南側)へ曲がるが直進(ちょっと左)
に丸太の渡してある溝を越えて更に藪道へ入る。
少し行くと前記の溝がやがて大きな竪堀となり、
山頂へ向けて続く。
山頂の郭。
本丸でしょうか。
四方が急峻な崖となっている。
北側から辛うじて庄原方面の街道筋の展望がある。
東側の崖を無理して降りてみる。
中央の土手の両サイドに僅かな溝が...
竪堀跡?
振り返って本丸方向を見上げる。
かなり急峻。
南へ廻って本丸方向を見上げる。
ここは急峻+藪で登り下りは出来ない。

この辺り(東~南側)や登って来た西側には
郭跡らしきものは見当たらない。
(北西側にはあるが...)
本丸北西下の小郭。
そこから振り返って本丸方向を見上げる。
更に北西下の小郭。
もっと北西に下ると更に小さな郭。
ここまで来ると戻るのが大変。
有福城全景(北北西より)
同じく南西より。
(まとめ・総評)
沼田小早川氏の祖、土肥実平が依った城。
実平は源頼朝の側近で、平家討伐時、義経とともに西国へ派遣。
この時備後と接点を持ち、対平家の為、有福城に依る事になる。
実平の子遠平の実子維平は相模の本家を継ぎ、養子景平は沼田荘に入り小早川氏を名乗る。
その後、相模の本家は衰え、分家小早川が繁栄する事となる。
小早川景平から12代後が小早川隆景(毛利元就三男)となる。

その後、南北朝時代、足利尊氏が幕府を開いた際、反幕府として挙兵した備後南朝方の中心人物竹内兼幸が拠った城。
竹内氏は北朝方の翁山城の長谷部氏らと争い、敗れ衰退していった。

甲山(世羅)方面から翁山城を過ぎ、国道432号線が左折する所を直進、すぐ(橋手前)を左折する。
上下の古い町並みに入り、200mで右に上下歴史文化資料館。(駐車場は左)
更に進むと国道432号線に合流し、1.2㎞で三次方面に分岐(左折)、そこを直進して900mで、
右側少し奥に写真2枚目の案内板がある。

案内板から山に向けて直進し、建物と建物の間から入山、もしくは建物の左を迂回して入山する。
すぐ道は右(南側)へ曲がるが直進の藪道へ入る。更にすぐ右(南側)へ曲がるが直進(ちょっと左)
に丸太(何本か腐り落ち1本しか残っていない)の渡してある溝を越えて更に藪道へ入る。
途中大規模竪堀を右に見ながらつづら折りの道を15分で山頂。

山頂すぐ下(東から南)しか探検しなかったが、もう少し突っ込んでいけば、
地形的(北→東→南)に郭が存在したかも知れません。

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 参考資料:なし