siro  頼兼城跡(よりかねじょう) 比高25m
場所広島県三原市頼兼1丁目 頼山陽先生遠祖頼兼城址
頼山陽先生遠祖頼兼城址
訪問日2015年5月4日(月)
備考 頼山陽の祖、岡崎十郎左衛門頼兼の城。





本日は三原のMさんの案内で、三原市内の史跡探訪をしました。
最初は頼兼城跡探訪で、後に三原城跡(周辺史跡含む)桜山城跡と続きます。

まずは、頼兼城跡から...
頼兼城跡
主郭。かな?

畑などがあり、私有地の様なので、
この奥は探訪出来ない。
頼兼城跡
主郭の背後にある道。
堀切だった可能性は大です。
頼兼城跡
「頼山陽先生遠祖頼兼城址」とある。
頼兼城跡
その裏。

城主岡崎十郎左エ門頼兼天正年間
故アリテ廃セラレ子孫永ク此地方
ニ住シ後竹原ニ移ル 山陽先生ハ竹
原頼五世春水ノ子也  大人
頼兼城跡
東側から全景。
岡崎十郎左衛門頼兼の築城。

小早川隆景の神辺城攻めの際、岡崎頼兼にも出陣の命があったが、
頼兼の妻女と姉妹関係にある神辺城主の妻女との事もあり、頼兼は出陣しなかった。

それにより、小早川隆景の神辺城攻めの後、頼兼城は攻められ、
頼兼は戦いに敗れ、一族全員自害し城に火をつけ亡びる。頼兼城は廃城となる。

それに先立って、頼兼は妻女を実家の丹下氏の元へ帰した。
身ごもっていた妻女はそこで男子を生み、五郎左衛門と名乗った。
五郎左衛門は、小早り氏の詮索を恐れ、後に姓を岡本と改めて鍛治屋を営む。

その後子孫は代々続いて、岡崎家から分家し竹原に移り、姓を岡崎から頼に変えたと言われる。
これが頼山陽の祖となる。「頼」は「頼兼」から取った一字である。

頼氏の初代は竹原で運漕業を営み、屋号を「頼兼屋」と称した。

などから、岡崎氏、頼氏の子孫にとって、頼兼の存在は特別だったと思われる。





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 参考資料:なし