siro  神辺城跡(かんなべじょう)、比高約115m
場所広島県福山市神辺町川北
訪問日2009年1月12日(月)
備考神辺平野の要交を守る山名氏、杉原氏などの城
郭図の表示


神辺城跡に向う途中、南西方向より。

公園化で一部木が伐採されています。
この部分から右の樹林帯へ向けて、
畝状竪堀が20本以上連なっているはずですが、
伐採部分はもちろん、
樹林帯の中にも確認出来ませんでした。
主郭郡東端まで車で上がれます。
そこの駐車場にある「神邊城想像図」。
F郭へ向けて主郭郡南側が通路になっています。
まず橋を渡るのですが、
その橋の下が堀切になっています。
F郭。
F郭から西下に2つ郭がありますが、
西に向って左手は建造物に占領され、
右手は藪だらけだったので写真は撮りません。
F郭から西に向って、神辺平野。

この右手後方備前方面から、
前方府中方面に向けてが旧山陽道、
左手芦田川河口方面に向けてが新山陽道です。
海路交通が盛んになるに連れて、
要路も山間部から沿岸部へ移動しています。
北側の展望。
高屋川を挟んで中央は、要害山城(天神山城)跡。
E郭。
奥はD郭。
D郭。
C郭。
石積み跡が...
B郭。
C郭、D郭を見下ろす。
A郭南斜面の藪に分け入り、石垣跡。
これも...
これも...
これは比較的新しい時代のものでしょう。
A郭。
A郭にある案内板。
A郭南東にある登城口。
A郭北にある登城口。
G郭。
G郭にある井戸跡。
G郭からH郭を見下ろす。

この尾根先にも郭郡がある様です。
今日は行きません。
H郭にある石積み跡。
H郭からG郭を見上げる。
H郭から駐車場(堀切方面)に戻る途中、
搦め手の谷筋を見下ろす。
搦め手(北東)側からの遠景。
(まとめ・総評)
1335年、備後守護に就いた朝山景連による築城。
1401年、山名氏が備後守護代に就く。
1538年、杉原理興が大内氏の命で尼子側の山名氏政、忠勝を追い、城主となり、以後山名姓を名乗る。
1542年、理興は大内氏の出雲遠征の情勢を見、尼子側に走り、対大内側との神辺合戦となる。
1549年、堅城神辺城も大内氏の総攻撃に耐え切れず、山名理興は出雲に走る。
その後理興は許されて神辺に復帰、1557年に病死し、同族の杉原盛重が毛利氏の後押しで城主となる。
(その間、陶隆房の謀反、折敷畑の戦い、厳島合戦を経て、備後は毛利氏の版図になる。)
1584年、杉原氏の内紛によって毛利氏により討伐、以後毛利氏の直轄となる。
1600年、関ヶ原敗戦後、福島正則入封、のそ筆頭家老福島正澄が入城。
1619年、福島氏改易後、水野勝成が入封。その後、神辺城は規模が小さい事から福山城を築き、移る。
これにより神辺城は役目を終え、廃城となる。

石積み跡と見られる石が各所で見られましたが、自然石らしきもの、加工石と織り交じり、長い歴史を感じます。
四角く加工された石や、矢穴のある石も多く見受けられました。

国道313号線神辺町川北で、黄葉山の北東の谷筋から「吉野山公園」又は「神辺城跡」を目指して車で登る。
突き当たりが神辺城跡の駐車場で、写真2枚目の看板がある。
写真1枚目の伐採部分につづら折りの階段も見られましたので、そこから歩いても登れるのでしょう。

本日5箇所廻った中の1箇所目です。

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 参考資料: 日本城郭大系(第13巻)広島・岡山